シークバーを制御する自分を制御する時

家で映画を見ているとシークバーを見たくなる

 

特に緊迫した場面、薄暗い部屋を懐中電灯片手に歩いているその時。

 

不確定な状況に得も言われぬ恐怖を持っている。

 

シークバーを見ることで残り時間から逆算して自分の中でその先の展開を想像し自分の心を守ろうとしているのだなと考える。

 

だが、あえて、シークバーを動かさない

 

不安になっている自分を理解したうえでその自分さえも超越した部分で映画に向き合いたい。そういう意地がある。

 

映画を見ている最中にスマホを見る行動に出るのもこの防衛反応があるのではないかと思う。

 

感情が動くということは個人差はあれど疲労感や不安感を伴う。

 

スマホをそれらから守るフィルターにしているのではないか。

そんなことをおもいました。

 

 

 

最近「パージ」という映画を見た。

 

劇中のアメリカでは1年に1日

12時間すべての犯罪行為が合法になる「パージ」という法律が存在し、

その日は警察も病院も機能停止し、多くの人が殺人や暴力にいそしむというような世界観だ。

 

生類憐みの令もびっくりのトンデモ悪法に思えるが

「1日だけ内に秘めた獣性を開放することにより日頃健康に過ごそうね」

意訳するとこんな理屈で施行されているのだが、本編では社会的な弱者を合法で排除することで資本主義経済をブン回していこうという感じだった。

 

星新一ショートショートにも同じような話があったことを思いだす。

 

制限時間はあれど法律のないはとてもシンプルに感じた。

 

自分が「やりたい」「やりたくない」かの二択でしかない

 

自分が普段の生活ではぐくんだ倫理観や道徳心がいかんなく発揮される瞬間だ。

 

100人いて自分だけがやりたくなければやらなくていいし

 

逆に自分だけがやりたければやっていい

 

まあ、法律がある世界でもそうだけどね!

 

ルールに反さなければやりたいことやってていいからね!!

 

法律がある世界でも自分がやりたいかやりたくないかに従える。

 

こういう極端な自由を見た後だと感覚が麻痺して自分の持ち合わせた自由に対して強気になれる。

 

つまり何が言いたいかというと。

 

僕は「パージ」が起きたとしても映画の上映中にスマホは観ません。