継続は力なりってのはわかっているんだ

とある宗教家の詩が語源という説があるこの言葉

 

ご存知の通りどんな小さな努力でも継続することやがて成果が現れるという意味である

 

何か一つを続けて極める人というのはこの世に間違いなく存在していて

 

そのような人のおかげで発展した技術や新しい歴史のページが更新され続けているのだろうと思う

 

立派だ、すごい、様々な賞賛が浮かんでは消え浮かんで消え.........

 

 

いいなぁぁぁぁぁぁぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

 

何か一つを続け、やり抜く、なんてかっこいい。

雨にも負けず風にも負けず夏の暑さにも低気圧にも五月病にも負けずってな調子か!

すごいなぁ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!!!!!!

 

私は様々なことに興味があるタイプでやって見たいことをぽんぽこぽんぽことやって見ていた。

 

そのたびに思う、「もし私にゲームのようなステータスが存在していて好きに割り振れるスキルポイントのようなものがあるとしたら」と

 

様々な習得スキル、割り振る際に分散しているスキルポイントを何か一つに集中させたら、

自分も何かに尖った人間になることができたのだろうか。

 

全属性の初級魔法を使う人間より一つの属性の魔法を最上級魔法まで昇華させた人間になっていたのだろうか。

 

私は広く浅い人間だ。

だが、最上級炎魔法でドッカンドッカンやっている人間の楽しみじゃなく

魔法の火で料理を作り魔法の風で髪を乾かし、魔法の水で畑を耕す。

そういう楽しみが自分に合ってるかもとも思っている。

 

あるのは隣の芝生が青く見える色眼鏡だけだ。

 

私はこれからも広く浅い人間であり続けるだろう。

 

 

 

今興味があるのはアイリッシュ楽器のティン・ホイッスル

もしくは免許の取得である。

 

蛇行に次ぐ蛇行で私は生きていくだろう。

 

 

眠れる町のひと

ご飯を食べた後は眠くなる

 

あの瞬間の眠気がこの世で最もベストタイミングだと思う

 

 

私はその眠気に打ち勝ってまで風呂に入りより更なる高みへ行こうとしたのに

 

 

 

先ほどの眠気を86%とするなら今は74%になっていた。

 

ガリネズミじゃないんだからぁ…

 

普段よりは眠いが明らかに眠気が下がっている。

 

 

眠るために用意をしたというのに…

 

 

振り返ると楽しいよね

趣味でDTMをやっているのだが、昔の曲を聞き返す波が来ることがある。

 

すると意外と「いいなぁ」と思うことがある

 

今よりも技術は稚拙だからバランスは悪い。

 

 

でもなんかいいと感じる

 

 

自分がその時にやりたかったこと。そういうものを感じられる。

 

 

その時にある手札でやりくりしているのがいいのかしら。

シークバーを制御する自分を制御する時

家で映画を見ているとシークバーを見たくなる

 

特に緊迫した場面、薄暗い部屋を懐中電灯片手に歩いているその時。

 

不確定な状況に得も言われぬ恐怖を持っている。

 

シークバーを見ることで残り時間から逆算して自分の中でその先の展開を想像し自分の心を守ろうとしているのだなと考える。

 

だが、あえて、シークバーを動かさない

 

不安になっている自分を理解したうえでその自分さえも超越した部分で映画に向き合いたい。そういう意地がある。

 

映画を見ている最中にスマホを見る行動に出るのもこの防衛反応があるのではないかと思う。

 

感情が動くということは個人差はあれど疲労感や不安感を伴う。

 

スマホをそれらから守るフィルターにしているのではないか。

そんなことをおもいました。

 

 

 

最近「パージ」という映画を見た。

 

劇中のアメリカでは1年に1日

12時間すべての犯罪行為が合法になる「パージ」という法律が存在し、

その日は警察も病院も機能停止し、多くの人が殺人や暴力にいそしむというような世界観だ。

 

生類憐みの令もびっくりのトンデモ悪法に思えるが

「1日だけ内に秘めた獣性を開放することにより日頃健康に過ごそうね」

意訳するとこんな理屈で施行されているのだが、本編では社会的な弱者を合法で排除することで資本主義経済をブン回していこうという感じだった。

 

星新一ショートショートにも同じような話があったことを思いだす。

 

制限時間はあれど法律のないはとてもシンプルに感じた。

 

自分が「やりたい」「やりたくない」かの二択でしかない

 

自分が普段の生活ではぐくんだ倫理観や道徳心がいかんなく発揮される瞬間だ。

 

100人いて自分だけがやりたくなければやらなくていいし

 

逆に自分だけがやりたければやっていい

 

まあ、法律がある世界でもそうだけどね!

 

ルールに反さなければやりたいことやってていいからね!!

 

法律がある世界でも自分がやりたいかやりたくないかに従える。

 

こういう極端な自由を見た後だと感覚が麻痺して自分の持ち合わせた自由に対して強気になれる。

 

つまり何が言いたいかというと。

 

僕は「パージ」が起きたとしても映画の上映中にスマホは観ません。

 

 

 

 

 

映画を二回見ること

最近面白かった映画を見ると「もう一回観たいな」と思うことが多くなった。

 

 

実際に映画館で同じ映画を複数回見ることが増えた。

 

 

これはいったいどういう内面の変化なのだろう。

 

 

私が小さかった頃は映画館に同じ映画を何回も見に行くことなんてしなかった。

なぜ「一度見たものをなぜもう一度見るのか」という感覚すらあったと思う。

最近スタジオジブリの「君たちはどう生きるか」を映画館で見た。ジブリに造詣が深い人間ではないがジブリが持つ空想感が頭に流れ込んでくる事は私にとって心地よかった。

 

 

同映画を見た仲のいい友人と話すと結論「もう一回観に行きたい」というまとまり方をした。

 

 

この状態に私は「成長」という感覚を覚えた。

 

 

幼かったころの映画といえば「連れて行ってもらうもの」だったと思う。

観たいと思った所に「与えてもらう」ものだった。

大げさかもしれないがこの感覚が今の自分にとっては腑に落ちた。

 

 

今現在の映画は観たいと思った所から「自分から迎えに行かないと」観ることができない。そのためより自分が求めているものと映画が結びつきやすいのではないかと考えた。

 

 

今までより自分が獲得した感覚で映画を楽しめているのかと考えてみるとなんだか楽しい。ほしいと思ったものを好きに自分に取り込めるなんて身勝手な「捕食者」のような感じがする。好きなものを好きなだけ食べていいなんて子供の夢だろう。

 

子供の行く先が大人ならその夢は大人にとっても夢なのだと思う。

 

もう一度観に行きたいな。「君たちはどう生きるか

好きなものを好きなように。そういう単純さで。

 

 

 

 

 

 

もしくは単純に「老化」かもしれない。一回見ただけじゃ覚えておくことができないのだ。